1912年 ルドルフ・シュタイナー、神智学から分離するかたちで人智学を設立する。
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日付:1912年
小咄:
1902年に神智学のメンバーになり、十年間に渡ってドイツ支部の責任者として敏腕をふるったルドルフ・シュタイナーは、1912年に協会を脱退し、ケルンで人智学協会を設立する。不和のもととなったのは、30年前のブラヴァツキーのインド滞在の奇妙な余波である。創始者の死後、神智学協会の会長となったアニー・ベサントは、インド支部で出会った現地の男の子がキリストの生まれ変わりだと信じ込むようになる。このことによって、以前からブラヴァツキーよりもキリスト教の神秘主義の伝統を重んじ、神智学が東洋主義に傾いていることを批判してきたシュタイナーの堪忍袋の緒が切れる。神智学と袂を分かつようになったあとも、シュタイナーは旺盛な執筆と講演活動を続け、1925年に亡くなるまで人智学をヨーロッパ中に広めていく。ブラヴァツキーから引き継ぐかたちで人間の物質的身体のほかに「エーテル体」や「アストラル体」などのスピリチュアルな層があるとし、人智学の修行を積むことで物事の「自然=本性を露わにすること」ができるという教えは多くの芸術家の心を掴む。また古代の神秘主義から連綿と続く星々の「影響」論や、独自の音楽論や楽器論は、シュタイナーの死のちょうど翌年に海の向こうのアメリカで生まれた音楽家の活動に深く結びついていく。
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